ぜんかいは、せいこうしゃであるとあるしゃちょうさんが、きふをすることをぼくにすすめたというエピソードをしょうかいした。
そこでこんかいは、なぜきふをするとゆたかになるのか、そのりゆうについてかいせつしていこう。
まえでのしゃちょうさんは、じっさいにきふしたぼくにこういった。
「きふはいきにするものだ。だれがきふしたかわからないようにやりつづけてごらん。」
そういわれ、ぼくはしゅういにないしょできふをつづけてみたのである。そうしてしばらくつづけていると、つぎの3つのことにきがついたのだ。
1つめは、チャンスがふえたこと。
2つめは、いぜんにくらべると、もんだいかいけつがはるかにじょうずになったこと。
3つめは、じぶんにたいするイメージがすごくたかくなること。
まずは、1つめの「チャンスがふえたこと」からかいせつしていこう。
ちょっとそうぞうしてみてほしい。あなたのめのまえに、2にんのこどもがいるとしよう。そのこどもたちに、たまごボーロをプレゼントすることをおもいついた。さて、プレゼントをもらったときの2にんのはんのうをみたあなたは、どちらのこどもにまたプレゼントしてあげたいな、とおもうだろうか?
1にんめは、「……」とむごんでもちさる。
2にんめは、「おにいちゃん、ありがとう!わーい。」とえがおでおれいをいう。
とうぜん、2にんめのこどもだろう。つまり“チャンスをモノにするひと”は、チャンスがおとずれたとき、それをよろこんでかんしゃしながらうけとるひとなのである。
さらに3にんめのこどもが、
「おにいちゃん、ありがとう! かえってからおとうとといもうとにもわけてあげるよ!」
といったらどうだろうか? もちろん、またプレゼントしてあげたいとおもうはずだ。
2どめいこうのチャンスをてにいれるコツは、「すでにうけとったモノをどういかすか」につきる。じぶんだけでひとりじめするのではなく、たのひとにもしぜんにわかちあえるようになると、もっとチャンスがおとずれるようになるのだ。
イメージしやすいように、たまごボーロとこどもでたとえたが、さいきんじぶんがうけとったものと、そのごにとったこうどうにおきかえてかんがえてみてほしい。
ぼくじしんがたいけんしたことだが、あるすばらしいひとにであうきかいがあり、すばらしいおはなしをきかせてもらった。ぼくはすぐにじぶんのメールマガジンやBlogでしょうかいして、どくしゃのほうにもそのはなしのないようをつたえたのである。
するとそのひとは、
「こういちくんにはなすと、たのひとにもぼくのはなしがつたわるんだってね。うれしいよ!」
とたいへんよろこんでくださって、またまたよいおはなしをおうかがいすることができたのだ。おまけにメールマガジンのどくしゃもふえるし、ぼくにとってとてもいいじゅんかんがうまれたのである。
きふのしゅうかんをもつと、じぶんがうけとったものを、しぜんとたのひととわかちあうことができるようになる。これはごからきがついたことだが、とてもプラスになった。ビジネスにたいするしせいもへんかしたのだ。
めのまえのおきゃくさんからすこしでもりえきをえようというしせいから、「そのりえきからおきゃくさんになにをあたえられるだろうか?」といういしきにかわりはじめると、しぜんとおきゃくさんがリピートしてくださるようになったのである。
「きふはいきにするものだ。だれがきふしたかわからないようにやりつづけてごらん。」
というコトバのうらには、すごいひみつがかくされていた。これもごからきがついたことだが、きふがしゅうかんになると、あたえたときにみかえりをもとめなくなるのである。
ぜんかいしょうかいした、はじめて1まんえんをきふしたときのぼくは、おんなのこにいいところをみせようというしたごころをもってきふをした。どうきがおもいっきりみかえりをもとめていたのだ(えみ)。
ところが、すべてにおいていえるのだが、みかえりをねらってやるとなにごともうまくいかない。たとえば、きゅうりょうびまえなのにむりして、やけいのキレイなレストランへいちゅうのおんなのこをさそったとしよう。たとえかのじょがそのさそいにのってくれても、きもちにもさいふにもよゆうがないとなると、「キレイなレストランだよね」とさわやかにいいながらも、“こんやはきさないぞ!”というなっとうみたいにねばついたしたごころオーラがけあなからふきだしてしまう。かのじょはすぐにそれをさっちし、にげだしてしまうだろう。
しかし、じゅんすいにあたえることをたのしみみかえりをもとめないひとなら、うつくしいやけいをいちゅうのじょせいといっしょながめながらすごすじかんを、こころからたのしむことができる。そのほうがこうかんどもあがり、よりよいコミュニケーションができて、やっぱりうまくいくのだ。なにがうまくいくかは、あえてかかないが(えみ)。
あたえることをたのしむためには、3つのじょうけんがある。
1.あたえることにむりがあると、みかえりをもとめてしまい、うまくいかない。
だから、きふをするならむりのないはんいですることだ。
2.あたえるこういそのものが、みかえりがいらないほどダイスキなこと。
きらいなことをあたえると、ぎせいしんにつながり、ついついみかえりをきたいしてしまう。
3.みかえりをもとめずあたえることを、たのしめるようになるまでれんしゅうすること。
だれにもないしょできふをするというこういは、ぼくにとって「あたえることをたのしむ」ための、とてもいいれんしゅうになった。ないしょできふをしなければ、きっとぼくはいまでもなっとうみたいなオーラをだしまくっていたはずだ(えみ)。
さて2つめのはっけんは、「もんだいかいけつがはるかにじょうずになったこと」。もんだいのかいけつがはやくなり、もんだいからまなびせいちょうできるようになった。
きふをするまえのぼくは、なにかもんだいにちょくめんすると、そのじょうきょうから“ウバウ”ことばかりかんがえていた。つまり、どうすればじぶんのけんりとしゅちょうをあいてになっとくさせ、じぶんのとりぶんをかくほできるかが、さいだいのもくてきになっていたのだ。ところがきふをつづけていくうちに、かんがえかたがすこしずつかわりはじめた。ちょくめんしたもんだいにたいして、「じぶんがあたえられることはなにがあるだろうか?」とかんがえるようになったのだ。
たとえばそれいぜんのぼくは、じぶんのホームページにかいたぶんしょうを、どうぎょうしゃからそっくりまねされると、しんそこはらをたてていた。べんごしをたててそんがいきんをせいきゅうできないだろうか? あいてをギャフンといわせるにはどうしたらいいだろうか?と、すごーくくらいはっそうばかりしていたのだ。
ところが、「なにをあたえられるだろうか?」というしこうかいろがうまれると、
「よし!まねされるなら、まねされよう。どうぎょうたしゃがこぞってじぶんをまねすればぎょうかいのマーケットがおおきくなるくらい、すばらしいものをつくってやろう!そうすれば、まねをされるとたのしくなるぞ!だってマーケットがおおきくなるんだもん。」
なんてはっそうができるようになり、すごーくたのしくなったのだ。
みぢかなひととトラブルがあったときも、かいけつがはやくなった。こいびととついこうろんになったとき、じぶんをせいとうかするまえに、「このじょうきょうでぼくがあいてにあたえられるものはないだろうか?」とかんがえるようになったのだ。おかげで、あいをだしおしみしていたことにきがつき、すなおにじぶんのひをみとめられたこともあった。「じぶんがあいてにしてあげられることはなにだろうか」とかんがえ、それをじっこうすると、こうろんしたすうふんごにはいっきにラブラブにもどれたりする(てる)。
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